Acoustic Guitar World
ホーム インタビュー ニュース イベント 連載 レビュー 電子書籍    
ギタリストインタビュー〜シオミモトヒコ
前のページ 1 2 3 4 次のページ
ーそれで楽器商社に就職された。

シオミ:はい。アコースティックギターは好きなので、名古屋の楽器商社で楽器の開発などに携わりました。その後もイサトさんとは頻繁に連絡して情報交換していました。
僕がいた会社が初めてカナダのラリビーを輸入することになりました。ブルース・コバーンが使っているギターだと知っていたので、カナダ人のバイヤーにそれを伝えたら喜んで、「日本でもそんなに知られているのか」と言っていましたが、知られていません(笑)。当時輸入ギターというのは、マーチン、ギブソン、ギルドが3大ブランドのように認識されていました。ラリビーを知っている日本人など、イサトさんの生徒達やごく一部のマニアだけといった時代です。
イサトさんにはラリビーのカッタウェイのモデルを使っていただき、全国の楽器店でデモ演奏をしていただきました。イサトさんのファンのバイブルのようになっている「ミスターギターマン2」の表紙で持っているギターです。もう1本プロモーション用に入れていたギターは当時プロ活動を初めていた丸山ももたろうさんに使ってもらう事にしました。

その後もいくつかのアコースティックギターのブランドを立ち上げたりしましたが、特に今も残っていて誰にでも知っていただけている仕事としてはタカミネですね。このギターの国内での立ち上げに携わりました。ピックアップの開発には直接関わっていた訳ではないのですが、プレイヤーの立場として様々意見をしていました。コントロールの形状や、ピックアップを搭載するギター本体のスタイルなどの選定、その他にもピックガードの形やポジションマークの形といった部分のデザインなどです。日本で売り出すギターが出来上がってからは、国内市場へのプロモーションを担当しました。そこで、このギターを「エレクトリックアコースティックギター」と名付けて販売をスタートさせたわけですが、これがいつしかこの種のギターすべてを「エレアコ」と呼んで親しまれるようになりました。

ただ、発売当初は、エレキギター、バンド主流の時代の中で、アコギが生き残っていくにはアコギにもマイクは必要だというのが切実なテーマでしたが、アコギにマイクをプリセットするという行為には批判的な意見が多く、販売は随分苦労させられました。
タカミネを店に置いてもらうため、僕はデモ演奏をしに全国の楽器店をまわりました。当時まだ珍しいラグタイムや諸々フィンガースタイルのデモ演奏ですから、演奏自体はそれなりに集客もあり楽器店でも好評でしたが、ギターを扱う事にはあまり積極的ではない店が多かったのです。ギターにピックアップが内蔵され、ボディにボリュームや電池ボックスがつくというのは抵抗感がある時代で、店員さんは「ギターが重くなりますよね」、「振動を止めてしまいますよね」、とネガティヴなことばかり指摘されます。それは事実だし、本当にいいアコギならピックアップは付けたくないと自分でも思ってますが、バンドの中で、ベース、ドラム、キーボード達と一緒にアコギの音を生かそうとしたら、いくら高級ギターでも無理です。店員さんの固くなってる頭と、自分が国内でエレアコを広めていかなければいけないというしのぎあいを何年かやってました。
今はエレアコは当たり前のようにありますが、普及はやはり海外が早かったですね。日本の楽器店には、イーグルスのホテル・カリフォルニアのイントロはタカミネの12弦だという話をよくしました。これが一番説得力のあるセールストークでした。
その頃も、イサトさんには国内のいろんなアコギを弾くアーティストを紹介してもらったりして、随分助けられました。だけとさすがにイサトさんにはエレアコのデモ演はお願いしませんでしたし、頼んでも引き受けてもらえなかっただろうと思います。

ーギター教室もやられてたのですよね

シオミ:名古屋での仕事が落ち着いた頃からです。イサトさんが名古屋でライブをする時は、僕のギター教室の宣伝のために僕をゲストに呼んでくれました。イサトさんのライブを見た人が名古屋にもこんな人がいるんだ、とギターを習いにきてくれましたね。

ーイサトさんの教室と合宿も行なっていたようですね。

シオミ:イサトさんの教室が毎年合歓の郷で泊まりがけの合宿をするようになりました。そこでは初日の夜に先生が模範演奏をして、翌日生徒全員が演奏します。ある年にイサトさんに僕の生徒さんもいい刺激になるので連れて行っていいか尋ねました。そこから大阪と名古屋の教室が合同合宿を行うようになりました。
その後、イサトさんと倫典さんが知り合い、倫典さんもインストを始めた頃で、ライブで名古屋に来る時は二人とも僕の家にくるようになりましたね。
何年かしたら東京の岡崎倫典さんの教室も加わることになり、東京、名古屋、大阪のそれぞれの教室合同合宿を何回かやりました。

ー教室はずっと続けられていたのですか。

シオミ:途中、途切れ途切れの時期はありますが。多い時は3カ所くらい掛け持ちしたり、頼まれた先が変わって場所も色々代わっていきましたが、かれこれ20年以上はやってました。兄弟で、弟は名古屋で僕に習っていて、兄が大阪でイサトさんに習っていて、二人で譜面をたくさん集めてたような生徒さんもいたりしました。(笑)。
最近ZOOMを使って久しぶりに教室を再開しています。2010年頃からYouTubeをやり始めて、時々「譜面が欲しい」だの「どこに住んでますか、近くなら習いたいのですが」といったような連絡がありましたが、ようやく最近になって距離に束縛されずに教えられる便利な時代になりましたね。

ーこれまでたくさんの有名アーティストと会われたりしてこられましたね

シオミ:イサトさんは、僕を20曲で卒業させてしまった事を多少申し訳なく思ってくれていたと思います。
僕がイサトさんの教室を卒業して1,2年くらい経った頃、ステファン・グロスマンとジョン・レンボーンが軽井沢で泊まりがけでセミナーをやるということで、日本のギターファン20人くらいがギターを持って参加しました。1978年のことです。
日本でもフィンガースタイルでギターを弾く人が大阪以外にもこれだけいるんだなと思いましたね(笑)。
イサトさんはそのイベントにゲストで呼ばれていて「一緒にいかへんか」と誘っていただきました。
初日にイサトさんとステファン・グロスマン、ジョン・レンボーンのライブがあり、その前だったか、後だったかに参加者全員がこの3名の前で1曲弾かされるのです。そこでステファンかジョンか、翌日どちらに教えて欲しいか希望を伝えるのです。
実はイサトさんの教室の卒業曲がジョン・レンボーンの「マイ・ディア・ボーイ」だったのですが、僕はその曲をジョン・レンボーンの前で弾き、そしてあくる日はこの曲を教えて欲しいと言いました。
その時点では、僕もイサトさんもその卒業曲の譜面が100%合っているとは確証が持てていなかったのです。当時はYouTubeもDVDもないのでイサトさんがレコードから耳コピでタブ譜にして教材としていたのです。その日、僕がジョンから習っている時はイサトさんは遠巻きながらも興味津々でした(笑)。なにしろ本物が答えを示してくれる瞬間なのですから。最後はチョーキングで終わるのですが、チョーキングする場所が全然違ったとか、ほんの数か所でしたが発見はありました。この頃はそんな風にして、ちゃんとした情報を掴むにも何年がかりで、今にしてみれば、面倒で時間のかかる時代でしたね。


前のページ 1 2 3 4 次のページ

シオミモトヒコ 
https://donighdecker.wixsite.com/eadgbe

京都生まれ​
幼少期は5歳からオルガン、その後ピアノ、クラシックギターとお稽古通い。
1976年 中川イサトギター教室に入門し、翌年最初の卒業生となる。
その後、当時はまだ珍しいフィンガースタイルのギター教室を愛知県で開始、関西の中川イサト教室、関東の岡崎倫典教室と共に合同合宿などを展開し、フィンガースタイル黎明期の普及に関与。 一方で楽器商社に永年従事し、カナダのLARRIVEEギター日本初上陸、タカミネギターの国内販売立ち上げのプロモーション展開などを担当。今や業界に定着した「エレアコ」という言葉を生み出した。
2022年オリジナルアルバム 「 ONCE AND FOR ALL 」リリース。
ONCE AND FOR ALL
ONCE AND FOR ALL

発売日:2022年6月1日
販売価格:3,000円(税込)

1. Morning Haze
2. 春かな
3. C#Rag
4. 8月
5. Maria Elena
6. Orange Jam [duet with 岸部眞明]
7. Eの呟き
8. どこか
9. Katsura
10. 晴れ時々曇り
11. 窓の向こう
12. 見上げてごらん夜の星を
13. ゆめのまた夢
Bonus Track
14. Danny Boy
販売サイト プー横丁
       Amazonで購入








Acoustic Guitar World

トップページ l インタビュー l ニュース l イベント l 連載 l レビュー l 電子書籍 lEPUBについて l facebook l Twitter 
Acoustic Guitar World について Copyright © Acoustic Guitar World All Rights Reserved.